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配布物とか来客とか [所長の部屋]

実に久しぶりの更新です。

そうこうしているうちに上半期が終わり。ここまではコロナに押し込まれていますが、後半は盛り返していきたいと思います。

4月の初旬から、毎週金曜日に『新型コロナウイルスについてのお知らせ』という配布物を発出しています。半年間、毎週欠かさず出しました。

何かがあればそれを共有、なにもなければ『特に何もなかった』ということを共有。在宅で過ごしている方と通所を継続している方で情報の量や速さに差が出ないように。通所規模がほぼ元に戻って以降も様々な周知や情報提供を続けてきました。

半年間これを継続して、まあまあここらで一旦定期便という形はひと休みしてもいいのかなと思っています。寒くなってきたころにはまたいろいろな対応が必要になってくるだろうけど。

はやくワクチンできないかな。

関係ありませんが、今日は来客がありました。横浜能楽堂のスタッフの方。能や狂言の公演を障害がある方にとってもなじみのあるものにするために、どういう工夫ができるか、というご相談でした。

先日は戸塚図書館のスタッフの方がお越しに。『同区諸活動推進月間』についてご意見を伺いたいとのお申し出。

『福祉』の人とはまた違った視野や視点、勉強になります。



今日のTシャツはAC/DC『highway to hell』。

来客対応にはそぐわない柄でした。大失敗。




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Born This Way [所長の部屋]

昨日のこと。
メンバーの一人が着ていたTシャツに
『I'm on the right track』
という英語がプリントされていました。

trackっていうのは経路とか車線とかっていう意味で、直訳すれば“私は正しい道を進んでいる”ということになるけど、ニュアンスとしては“これが私の進む道”っていう感じかなと思います。

『障害者』という言葉があって、よくこれと対義して用いられる『健常者』という言葉があります。
このふたつの言葉を並べてみると、なんとなく人間のありかたして『健常』≒right trackがあって、『障害者』はその正しい経路に乗れていない、というような対比が感じられます。

でも、よく考えてみればべつにright trackなんてあるわけない。カニが横に歩くのは前に歩けないのではなくてそれがカニの歩き方だからです。

『障害者』であるメンバーのTシャツに『I'm on the right track』って書いてあるのは、すごくいいなあと思いました。幹線道路ではないかもしれないけれど、我々の仕事はその道がどこに至るのかを一緒に探すしたり危険すぎる穴ぼこを埋めたりすることであって、誰かが勝手に決めたright trackに戻すことではないんだよな。

ちなみにこれ、たぶんLady Gagaのヒット曲『Born This Way』の一節。人とは違った個性を持って生まれたことを肯定し祝福する歌ですね。

個人的にTシャツがすごく好きで、活字を読むのもすごく好きなので、こういうのがすごく気になります。今日のわたくしのTシャツには『WORKING CLASS HERO』って書いてあります。

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7/26という日 [所長の部屋]

ひさしぶりの更新になります。新コロに翻弄されています。

そんななかですが、今年も7/26という日付を迎えました。

事件から4年が経過し、裁判が終わり、なんだか世間的には終わった話になってしまっているように感じますが、あの事件が提示した『生の価値』をめぐる問題はまったく解決していません。

先日、わりと売れている(らしい)ミュージシャンが『野球とか将棋とかで飛び抜けた才能の持ち主の配偶者は国家プロジェクトで選定しよう』みたいなことを言ったらしくて、なんというか事件と通底するものがあるなぁと感じました。

ALS患者の嘱託殺人などというニュースもありました。これについては“いじめや鬱からくる希死念慮に対して尊厳死とか持ち出す人はいないでしょ”って言ってる人がいました。まさにその通り。

コロナでいろんなことがすっ飛んでしまいがちだけど、考えるべきことをちゃんと考え続けなければ、と改めて思いました。
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【続・続】新型コロナウイルスへの対応についての雑感 [所長の部屋]

ゴールデンウイークが明けましたが、緊急事態宣言は延長。
しもごうは相変わらず通所率20%程度、さしあたり当面はこんな感じでやっていかざるを得ないのかな、と思っています。さらに言えば、ある程度感染が落ち着いてきたとしてもコロナウイルス以前と同じスタイルに戻すという判断は相当慎重にならざるを得ないと感じています。しもごうは他に先んじて規模の縮小を開始したので、規模の再拡大も他に先駆けて!と意気込んでいるのですが、こればっかりはどうにも。

先日、お上から『新しい生活様式』なるものが示されましたが、そんなんぜったいムリやんっていう項目がいくつもあります。もっとも難しいのが『距離を取る』という命題。送迎車だって適切な間隔を確保すれば5名+5名(ノア2台)+6名(キャラバン)+2名+2名(Nbox2台)で19名が限界です。

信頼するに足る具体的なデータに乏しいのがまた悩ましい。感染力が高いのはまあ確実として、実際のところ現状どれくらい拡がっているのか(新型コロナウイルスによる死亡者は本日付のデータで577人とありますが、無作為に国民から577人をピックアップした時に志村けんさんや岡江久美子さん並みに知名度がある方が入ってる確率ってどれくらいでしょう)。こういう指標がこうなったらこうしよう、というプロトコルを自分たちなりに持っていたいところですが、そもそも国自体が緊急宣言事態を解除する基準について今から考えるみたいな感じではどうにもなりません。

いずれにせよ、かなりの長期間にわたって状況に応じた対応を続けてゆくしかないようで、若干眩暈がします。わたくしにとって業界の兄貴分的な方がご自身のブログ(クリックするとリンクが開きます)でガルシア・マルケスの小説『コレラの時代の愛』に引っ掛けて『愛』の大切さを書いておられました(ガルシア・マルケスはわたくしも大好きです)。わたくしに言わせれば愛よりもそのあとに書いてあった給付費のことや資材の調達や制度の弾力的な運用や多様性や想像力が大切だと思うのですが、それらの源はつまるところ愛だろ、と言われたら、そうであるような気もします。

うちが縮小を始めたときに市の担当部課から『事業所側から利用自粛をお願いした場合は給付費の対象にはならない』という全く愛を感じられないお達しがありました。1か月経って、うちと同様の対応をしてるところがいっぱいありますが、みんな同じこと言われてるんでしょうかね。

みなさん、がんばりましょうね。がんばるなんて言葉はあまり好きじゃないんですけど、今はとにかくがんばらないと。ていうか、今がんばるために今まで学んできたんだよな。


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【続】新型コロナウイルスへの対応についての雑感 [所長の部屋]

今週も引き続き事業を極小化しています。

今週に入って、市内のいろいろな法人がいろいろな動きを見せているみたいです。
行政からなかなか危機感が伝わってこないのがもどかしいところですが、4月に人事異動があったばかりで制度や仕組みを勉強する暇がなかったわけですから混乱もあるのだろうなと思います。熊本地震の支援で現地に行った時にも同じような状況があったことを思い出します。

同時に、いろんな話が伝聞として流れてきます。これはよろしくないなぁと思っています。なんとか、どこかが中心になって情報の集約だけでも進めてくれたらと思いますが、どこも自分のところのことで手一杯なんだろうな。『基幹相談』とか『地域支援拠点』とか、あるいは〇〇連絡会とか、出番だぞ!と思ったりもしますが、おのおの本来業務の繁忙期+過去に経験のない事態ということ動きあぐねてる感じです(お断りするまでもありませんが前述の組織を批判しているわけではありません。というかどれもわたくし自身がコミットしなければならない組織です)。

そんななか、今日目にしたのは保育士さんが新型コロナウイルスに感染していたにもかかわらず、市が感染の事実を保護者に伝えないよう園に求めていたというニュース。園長会が抗議の声明(要望書)を出したとのことで、読んでみました。そうしたら、今回件についての市の対応への憤りと並んでもう一つ項目があって、市の方針を『原則休園+特別な事情に限り保育継続』に改めて欲しい、と言うものでした。

つまり、国は原則休園+特例で保育という方針を出しているところ横浜市は原則平常通りという方針でいて、それを国に沿った方針に改めてくださいよ、ということのよう。先日ブログに書いたように、障害福祉領域でも市は同じように国より緩い方針でいます。どうやらこれが全体を通じて市のスタンスのようです。首をかしげざるを得ません。

当分は手探りが続きそうです。


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新型コロナウイルスへの対応についての雑感 [所長の部屋]

活動ホームしもごうでは、現在、ご自宅で過ごせるメンバーについてはご自宅で過ごしてくださいとお願いしています。3事業所とも、かなり人数が少ないです。

これまでずっと、毎日メンバーのみんなと一緒に何をしようかと考えて日々やってきました。やりがいのある仕事って何だろう、運動不足になりがちなみんなが負担感なくできる運動ってどんなだろう、やっぱり世間の風にあたる時間を大事にしよう、などなど。すべて、みんなが元気に通って来てくれることを前提として、です。

送迎サービスをしながらも、『できるなら移動支援など“個”についている支援を使って、行き帰りの時間が社会活動になるような暮らしを』と話してきました。

新型コロナウイルスは非常に感染力が強く、2週間以上の潜伏期間があり、無症状の感染者がいる、というようなウイルスだそうです。

元気で来てね、とか、送迎より移動支援だよね、とか、いままで大事にしたいと思ってきたことが、すべて覆されています。それらはすべてメンバーのみんなの感染リスクを高めることになります。今、はじめて『来ないでください』と言うことが、『世間の風にあたらないでください』と言うことが、メンバーにできる最良の支援であると言いうる状況を経験しています。

しもごうでは国や市からの通知に先駆けて事業規模を縮小するという判断をしました。わからないことや決まっていないことがあまりにも多いなかで『思い切って安全サイドに振った対応をしよう』と決めました。

他の法人で、今の時点で平常通りに事業を継続することを決めている所もたくさんあります。これで結果的に感染が収束した時点で平常通りに事業を続けた事業所で特に影響もなかったとすれば、われわれは『なにを大騒ぎしていたんだ』というお叱りを受けることになります。そして、しもごうに来たいという気持ちを我慢してくれたメンバーも、それを支えるために努力をしてくださったご家族その他の関係者も、不要な苦労をしもごうのせいでさせられたということになります。その時はお詫び申し上げるしかないです。

一方で、もしも感染の拡大に歯止めがかからなかったら、そして、振り返ったときに『あの時あのタイミングで縮小/閉鎖していればよかったのに』という状況に立ち至ったとしたら、そのときには誰に詫びることもできません。

厚労省からの4/7付の通知には『可能な場合には通所を控えていただくことによりサービスの提供を縮小するなど感染拡大防止のための対応を検討した上で、支援が必要な利用者に対する支援が提供されるようにすること』とあります。一方で、これを受けて横浜市が4/8に出した通知には『事業所は通所利用者の受入を継続してくださるようお願いいたします。ただし、利用者等が新型コロナウイルスの感染防止のため、やむを得ず在宅での利用を希望する場合には(中略)在宅での 利用も可とします』とあります。

国が“縮小ベースで”と言っているのに対して市は“基本的に現状維持”と言っています。しもごうは厚労省寄りの(さらにそれを極端にしている)対応をとっていると言えますが、厚労省の通知が出る前にすでにその方向性を周知していて、別に厚労省の言い分に従ったわけではありません。政治の批判をするわけではありませんが、首相が『2週間は社会活動を極小化してほしい』と言った次の日に“休業要請の業種指定は2週間猶予か”というニュースが出る国で、もはや誰かの指示を待っていることはできないのです。結果的に市が示した方向性に背いているので、今後睨まれるかもしれません(すでに睨まれているという話もあります)が、そんなこと言ってる場合ではないのです。

家で過ごさざるを得ないメンバーはどうしてるかな、ご家族はいかがかな、と思いながら、数少ない登所してきたメンバーを見送るときに“また明日ね”と言うことすらできない日々に、自分の無力さを痛感しています。

どうか、『なにを大騒ぎしていたんだ』と叱られる日が早く来ますように。そんな祈るような思いでいます。


*お断りするまでもない事ですが、事業継続している所を批判しているわけではまっっったくありません。むしろわれわれのやっていることこそ各方面からお叱りを受けるようなことかもしれないと思っています。念のため。

新コロめ~


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判決 [所長の部屋]

津久井やまゆり園事件をめぐる裁判で横浜地方裁判所の判決がありました。

わたくし甘糟は死刑制度そのものに反対です。が、そのことはひとまず措いて。

報道を追う限りでは、この裁判は犯人の責任能力を認めるかどうかが判決の焦点だったとのことです。
その意味で、死刑判決が下ったということは本人に責任能力があったという判断が下されたわけです。言い換えるなら、犯人の行動には犯人にとっての合理性があった、ということです。妄想でも幻覚でもなく、彼には考える力があり、その考えに沿って行動しようという意思があった、と。

そうであるなら、その考えを彼はいったいどこから学んだのか。
なぜ彼は生の価値に優劣をつけ得ると考えるに至ったのか。
なぜ命を値踏みしたのか。
彼に考える力があり、その考えに沿って行動する力があると認めたなら、なぜ彼がその考えを抱くに至ったのかを、ちゃんと突き詰めて欲しいのです。

そう考えて、ふと見渡せば、われわれの周りには命を値踏みする発想が張り巡らされています。『勝ち組』などという集合名詞や公的扶助を蔑視する言動が何食わぬ顔で流通している社会。

この事件を、特異な人間が起こした猟奇的な事件として落着させてはならない。今我々が生きているこの世の中には命の価値の多寡を見積もる風潮が確かにあって、その風潮がこの事件の通奏低音として響いています。それをちゃんと糾弾しなければいけない。それを怠れば、この判決は命の価値になんらかの線を引いて命を奪った者の命を奪うという自家撞着に堕します。つまり、犯人の『命の価値になんらかの線を引き、その線から出ていると判断した者の命を奪った』というロジックと行為を罪としつつ、その彼を死刑にするということもやはり『なんらかの線を引き、その線から出ていると判断した者の命を奪う』ということであり、犯人のロジックを断罪しつつ結局はそのロジックを踏襲して犯人の命を奪うことであって、これは矛盾です。

そう考えつつ、思い出すのは事件の一報に接した時のこと。

わたくしはとっさにしもごうのメンバーのみんなのことを考えました。あのようなことがもしもしもごうで起こったら、と。そして強い憤りを覚えました。
“殺されたり、重傷を負ったりしたのがしもごうのメンバーのみんなであったら”、と。
殺されたり重傷を負ったりしたのが自分だったら、とは考えなかったのです。どこかで、自分と“彼等”を分けている。自分のなかにも犯人と同じような線引きがあることを突き付けられました。そして、自分の中にその線があるなら、もしかして環境や出会った人が違えば自分が彼だったのかもしれない、と。

ぞっとしました。

おそらく世の中の多くの人はこの事件を他人事ととらえています。犯人は特異な人物で自分は特異な人物ではない、と。けれど、大多数の人は心の中に彼と同じ線を持っているし、だとすれば自分が彼だったのかもしれないのです。

おそらく世の中の多くの人はこの事件を他人事ととらえています。被害者は『重度障害者』であって自分は『重度障害者』ではない、と。けれど、なにかの線が引かれているということを認めてしまえば、その線を誰かが動かしたときに、自分もその線の外に置かれてしまうかもしれないのです。

もしかしたら自分が彼だったのかもしれない。そしてもしかしたら自分が彼らのうちの一人だったのかもしれない。そう想像し続けるしかないし、そうし続ける必要があります。ず~っと。

*3/17 誤字と形容をちょっとだけ手直ししました





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最近の雑感 [所長の部屋]

新型コロナウィルスが広がりを見せています。
活動ホームしもごうにも『不要不急のイベントや貸し館は見合わせるように』というお達しが来ています。

日中活動は平常通りに実施しています。消毒と換気をいつも以上に行っています。そして、いつもは公共交通機関を使って自力通所しているメンバーも希望に応じて車両による送迎に対応しています。送迎車はパンパンです。こんなときに首の手術の影響で運転を控えざるを得ない自分がもどかしいです。

その首の手術で、2月の半ばに2週間ほど入院しました。生まれて初めての(生まれた時の産婦人科を除く)入院でしたが、色々もどかしい思いをしました。と同時に、行動を制約されること自体よりも制約の理由がわかるかどうか/納得できるかどうかの方がストレスに及ぼす影響が大きいということを学びました。日中活動の場面でもメンバーの誰かを制止したり待ってもらったりという場面はしばしばありますが、そういう場面では理由をちゃんと伝えようと改めて思いました。

3月といえば会議の類が集中するシーズンですが、片っ端から中止または延期になっています。今回は資料配布のみとします、というようなものも多々ありますが、そもそも最初っからそれでいいんじゃないかと思ったりすることもあります。

活動ホームしもごうにとってなにが『不要不急』なのかは、お上ではなく活動ホームしもごうが決めることだと思います。

以上雑感でした。
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自立とは [所長の部屋]

とあるNPO法人の広報誌から原稿のご依頼がありました。
『シリーズ;自立を考える』という連載企画で、わたくしに先立ってお二人の方がそれぞれに読み応えのある原稿を寄せておられます。
自立ってなんだろうか、というのはしばしば考えるところですが、言葉にするのはたいへんに難しかったです。みなさまにもお読みいただければと思い先方のウェブサイトのリンクを貼ろうと思ったらうまくいかないので転載します。ブログとしては長ったらしいですが、これでも5倍ぐらいの文字数の文章を削って削ってこの長さ。

~以下転載(ちょっと手直しあり)~

障害児者の生活に関わっている人にとって、自立について考えるとは『で』を『が』に変えていく営みである、と考えています。それについて書いてみます。

自立という言葉は自という文字と立という文字で構成されています。なので、自立という言葉が何を意味しているのかを理解するためには①自という文字の意味(自分とはどのような存在なのか)、②立という文字の意味(立つ/立っているというのはどういう行為/状態なのか)、③二つの文字の意味がどのようにつながっているのか、の三点を明らかにする必要があります。自と立の意味はそれぞれを論じるときりがないので簡単に“自のありかたは人それぞれ、立のありかたも人それぞれ”として、大切なのは③を考えるにあたって自と立を『が』でつなぐことだと思います。で、この『が』を踏まえてざっくりまとめると、要するにいろんな人がいろんなスタイルで生きているぞ、という意味になります。人はいろいろ、生き方もいろいろ。そのようないろいろをもろもろひっくるめて自立なので、実際のところ“自立とはなにか”という問い自体がそもそも成立しないのではないかとも思います。

ともあれ、困ったことに、世の中ではとかくここを『で』でつないでしまいがちです。つまり、他者への依存を減らすことが自立に至る道だ、という考え方です。これは全くばかげたドグマで、明らかな誤りです。人が暮らしを立てるために人の支えが必要だ、というのは少し考えればすぐにわかることで、別に『障害者の自立』に限らず、標準的な社会生活(自立しているとされる生活)を思い浮かべれば衣食住のあらゆる場面について他者への依存によって成り立っているということは明白です(あなたの昨晩のおかずの鶏唐揚げが食卓に上るまでのプロセスを考えてみましょう)。このことをきちんと考えに入れずに安易に『自立』を目指すと、待っているのは孤立です。自立とは他者に依存しない事ではなく、依存のリソースが重層的・多元的に張り巡らされている生活です(鶏唐揚げがない!夕飯抜きだ!ではなくて、唐揚げがないなら肉じゃがにしようかな的な)。

それから、ここを『で』でつなぐと人が自立しているかどうかについて第三者が判定することが可能になってしまうのも大問題で、生活のいろんな構成要件の存立状況について審査して“たいへんよくできました”とか“もうすこしです”とか、そういう評価が可能になってしまう。既に現在の総合支援法にもこういう傾向がみられて、非常に嫌な感じがします。

このように考えていくと、障害児者の支援に携わるわたしたちがすべきなのは孤立に至りかねない『自立』を目指したり、そのために『できる』とか『できない』とか評価したりすることではなくて、それぞれがそれぞれのありようで支え支えられて生きている、それが自立生活だよね、という理念を社会に定着させてゆくことだという結論に至ります。『で』を『が』に変えてゆくとは、そういうことです。

蛇足を承知で付け加えるなら、そもそも自立は別に生きる目的ではありません。もちろん自立が生きる目的である、という人がいるかもしれないし、それは当然アリだと思います。でも、人が生きる目的は何かといえば、これはもう『幸せになること』しかない。あるいは幸せに向かってゆくこと。今日が来たことを喜び、明日が来ることを心待ちにできる生活を営んでいれば、それが『自立生活』であるかどうか問う必要は全くありません。そして、矛盾を承知で言えば、そういう生活こそが自立生活なのだとわたくしは思っています。

みんなで胸を張って愉快に生きてゆきましょうね。

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映画の宣伝 [所長の部屋]

宣伝です。
いま、黄金町のジャック&ベティという映画館で
『だってしょうがないじゃない』
という映画をやっています。
ドキュメンタリーですが、吹いたりうなったりずっこけたり、とても面白いです。
ぜひ観てください。
主人公は軽度な知的障害があるマコトさん61歳、母と死別後は昭和な平屋でひとり暮らし。
本人も周りの登場人物もキャラが立ってて最高です。
笑って、ほっこりして、それからう~んと考えさせられる作品です。わたくしは自分の立ち位置(=支援者)の危うさや凶暴性をあらためて感じました。
作品のウエブサイトはこちら←クリックするとリンクが開きます

なお、DVD化の予定はないとのこと。
見逃し厳禁、劇場へ急げ!

とかいって、この界隈の人ならそのうち上映会とか学習会とかでタダで観られたりして


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