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自立とは [所長の部屋]

とあるNPO法人の広報誌から原稿のご依頼がありました。
『シリーズ;自立を考える』という連載企画で、わたくしに先立ってお二人の方がそれぞれに読み応えのある原稿を寄せておられます。
自立ってなんだろうか、というのはしばしば考えるところですが、言葉にするのはたいへんに難しかったです。みなさまにもお読みいただければと思い先方のウェブサイトのリンクを貼ろうと思ったらうまくいかないので転載します。ブログとしては長ったらしいですが、これでも5倍ぐらいの文字数の文章を削って削ってこの長さ。

~以下転載(ちょっと手直しあり)~

障害児者の生活に関わっている人にとって、自立について考えるとは『で』を『が』に変えていく営みである、と考えています。それについて書いてみます。

自立という言葉は自という文字と立という文字で構成されています。なので、自立という言葉が何を意味しているのかを理解するためには①自という文字の意味(自分とはどのような存在なのか)、②立という文字の意味(立つ/立っているというのはどういう行為/状態なのか)、③二つの文字の意味がどのようにつながっているのか、の三点を明らかにする必要があります。自と立の意味はそれぞれを論じるときりがないので簡単に“自のありかたは人それぞれ、立のありかたも人それぞれ”として、大切なのは③を考えるにあたって自と立を『が』でつなぐことだと思います。で、この『が』を踏まえてざっくりまとめると、要するにいろんな人がいろんなスタイルで生きているぞ、という意味になります。人はいろいろ、生き方もいろいろ。そのようないろいろをもろもろひっくるめて自立なので、実際のところ“自立とはなにか”という問い自体がそもそも成立しないのではないかとも思います。

ともあれ、困ったことに、世の中ではとかくここを『で』でつないでしまいがちです。つまり、他者への依存を減らすことが自立に至る道だ、という考え方です。これは全くばかげたドグマで、明らかな誤りです。人が暮らしを立てるために人の支えが必要だ、というのは少し考えればすぐにわかることで、別に『障害者の自立』に限らず、標準的な社会生活(自立しているとされる生活)を思い浮かべれば衣食住のあらゆる場面について他者への依存によって成り立っているということは明白です(あなたの昨晩のおかずの鶏唐揚げが食卓に上るまでのプロセスを考えてみましょう)。このことをきちんと考えに入れずに安易に『自立』を目指すと、待っているのは孤立です。自立とは他者に依存しない事ではなく、依存のリソースが重層的・多元的に張り巡らされている生活です(鶏唐揚げがない!夕飯抜きだ!ではなくて、唐揚げがないなら肉じゃがにしようかな的な)。

それから、ここを『で』でつなぐと人が自立しているかどうかについて第三者が判定することが可能になってしまうのも大問題で、生活のいろんな構成要件の存立状況について審査して“たいへんよくできました”とか“もうすこしです”とか、そういう評価が可能になってしまう。既に現在の総合支援法にもこういう傾向がみられて、非常に嫌な感じがします。

このように考えていくと、障害児者の支援に携わるわたしたちがすべきなのは孤立に至りかねない『自立』を目指したり、そのために『できる』とか『できない』とか評価したりすることではなくて、それぞれがそれぞれのありようで支え支えられて生きている、それが自立生活だよね、という理念を社会に定着させてゆくことだという結論に至ります。『で』を『が』に変えてゆくとは、そういうことです。

蛇足を承知で付け加えるなら、そもそも自立は別に生きる目的ではありません。もちろん自立が生きる目的である、という人がいるかもしれないし、それは当然アリだと思います。でも、人が生きる目的は何かといえば、これはもう『幸せになること』しかない。あるいは幸せに向かってゆくこと。今日が来たことを喜び、明日が来ることを心待ちにできる生活を営んでいれば、それが『自立生活』であるかどうか問う必要は全くありません。そして、矛盾を承知で言えば、そういう生活こそが自立生活なのだとわたくしは思っています。

みんなで胸を張って愉快に生きてゆきましょうね。

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