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7月26日 [所長の部屋]

今年もこの日がやってきました。

先日、区の自立支援協議会の全体会で虐待防止をテーマに講義をしていただきました。お話をしてくださったのは他区で長く障害福祉に携わってこられて、今は9か所あるグループホームを統括する立場で仕事をされている方です。そのお話の力点のひとつが「虐待は実際に虐待をした職員だけの責任ではない。支援者を虐待の加害者にしてしまう組織や管理者そのものに問題がある」という考えでした。
*正確には、個人の資質ではなく仕組みで虐待は減らせる、という前向きなお話です

やまゆり園で起こったことにも、たぶん通じるのだと思います。障害がある人を支えることを仕事にしようと思って現場にいる誰もが、何かが間違っていれば加害者になりうるのであって、実際に何かをした誰かのせいにして、その人の責任や罪を問うても、解決できることはほとんどありません。

講義のあとのグループワークで、『あの事件で悪かったのは誰なのか』というテーマで意見交換しました。もちろんみなさん“犯人はもちろんだが、犯人がそうしようと考えるに至ったプロセスでだれがどんな影響を与えたのか考えるべき”と言っていました。言うなれば模範解答です(こういうグループワークってえてして模範解答になりがちです)。

わたくし自身は、誰が悪かったのかと問われたら、それは自分であると答えます。犠牲になった方々がご本人の意思を脇に置いて人里離れた収容施設で生活していたことはどうしてなのかといったらそれは『社会』がそれを是としたからであって、自分もまたその社会を構成している一員なのだから。特異な個人のせいということで終わらせず、背景にある法人の体質そのものを問うていくべきという問題提起もなされていて、それはもちろんそうだけど、それって結局もうひとつ視線を手前に置けば特異な法人の体質のせいということで終わらせて背景にある『社会』全体のありようがもたらしたという点から目を逸らしているに過ぎない気がします。

ありえないことですが、もし自分があのとき職員としてあの場にいて、拘束されて、『犯人は重度障害者を殺そうとしている』と気づいたとしたら、その時に自分はどう感じたのでしょう。多分、心のどこかで、助かった、と思ったのでしょう。

線を引いてはならないし、そもそも線など引けない。そう唱え続けながら、自分の中に依然としてある線を薄くし、消そうとし続けるのみです。そして、自分の中にある線を薄くし、消してくれるのはやっぱりうちの利用者のみんなとの時間なのです。
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