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とつかで暮らす [所長の部屋]

こないだの土曜日に、戸塚区社会福祉協議会の障がい福祉分科会が企画した障害者週間のイベント『とつかで暮らす』に行ってきました。

第一部は当事者の発表で、すごく身近でリアルな感じがしてよかったです。まさに戸塚で暮らすっていう感じ。

第二部はすごく著名な人の講演。とても話し上手で、引き込まれました。ただ、話し上手な人の話を聞いた時にありがちなことですが、聞いている時はすごくするする入ってくるけど後で思い返すと実は理解できていないことが多いという。共生社会をSDGsに関連づけて話しておられましたが、わたくし個人的にどうもこのDにひっかかる。Development=成長・発展を善とする社会において障害者は常に阻害されてきたわけで(というか、そのような社会においてメインストリームから外されてしまう人を障害者と称しているというのが正しいのかも)、それをどう支えるかという文脈にDevelopmentが出てくるのはなんとなく違う気がしてしまう。

さらに言うなら、そういう成長と発展を善とする社会のありよう自体もうそろそろ限界が来ている気がしていて、じゃあ成長とか発展じゃない、その次に社会がよって立つべき価値・規範ってなんだろうと考えたときに出てくるのが共生という理念なんじゃないかと思うのです。developmentはもういいじゃん、と。

とかなんとか、もろもろ考えたりするのですが、とにかく教科書的な講演より当事者のリアルな言葉の方が心に響くなあ、というのが素直な感想です。

企画に携わった皆様お疲れ様でした。学びと思索の機会をありがとうございます。


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だってしょうがないじゃない [所長の部屋]

和田アキ子さんの歌ではありません。

こないだの土曜日に、『だってしょうがないじゃない』というタイトルの映画を観ました。
場所は、みどり福祉ホーム。映画館ではなくて緑区の機能強化型地域活動ホームです。
いくつかの法人が連携して研修を企画していて、その一環でこの作品を観てみんなで語り合おうという趣向でした。

『だってしょうがないじゃない』は軽度の知的/発達障害の当事者マコトさんのひとり暮らしに密着した長編ドキュメンタリーです。マコトさんは8年前に母と死別してから、母と暮らしていた昭和な感じの平屋建ての自宅で生活しています。通所施設とかには通ってなくて、ヘルパーとか傾聴ボランティアとかのサポートを受けています。親族が成年後見人として財産管理を担っています。

いろんなことが起こるとも言えるし、特に何も起こらないともいえる作品です。それだけに/それなのに、色々なことを感じ、考えさせられる作品でした。マコトさんにとっていちばんいいことがなにかはマコトさんが決めることで、それが『マコトさんにとっていちばんいいとわたくしが思うこと』は違っているということは当然ありうる。で、『マコトさんにとっていちばんいいとわたくしが思うこと』はきっと理に適っているんだろうけど、別に“いちばんいい”に至る道のりが理に適っている必要はないんだよね。っていうか、我が身を振り返っても何かを選ぶ理由が理に適っていることなんてほとんどないし。

[当事者主体]とか、[意思決定支援]とか、かぎかっこつきのいろんな理念が我々の業界に飛び交っていて、それはそれでたぶんいいことなんだろうけど、そういいつつ我々はマコトさんに『正解』を提示してねってやんわりと強要しているのではないか。

とかなんとか、うなったり、考えさせられたりする作品でした。上映後の、監督とディレクターと参加したみんなとで語り合う場がもうちょっと長くて、くどくどああでもないこうでもないっていう話になったらさらに良かったと思うけど、そう思うのはわたくしだけかもしれません。

だってしょうがないじゃない.jpg


みどり福祉ホームの荒木さん、お声掛けいただきありがとうございました。野次馬のくせに前列中央で大きな顔をしてすみません。

作品についてはこちら←クリックするとリンクが開きます

そのうち黄金町のジャック&ベティあたりでやるのでは。そうしたらまた観に行こうかな。




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7月26日という日 [所長の部屋]

今日は7月26日。『津久井やまゆり園事件』があった日です。

毎年、この時期になるとインターネットを中心にこの事件に関連した記事や考察が見られます。今年も、様々な文章を読むことが出来ます。

わたくしが現時点で最も強い印象を受けたのは
「生産性」の呪いに抗うために←クリックするとリンクが開きます
というもの。
最後の一文

どんな基準であっても「生きること」への線引きは、拒絶する。ただ「殺すな、生きさせろ」と、いかなる時代も言い続けること。その上で、先に述べたような短期的・実務的な土俵でも、偏見をはがす反例を示していくこと。そんな2層構造のアクションを続けていくことが、生産性の呪いに抗うための、地味で、長期戦で、しかし唯一実効性のある戦いなのだと思います。

というところ、ホントそうだよな、と思います。“生まれたからには生きてやる”というブルーハーツの詩と重なります。


メディアを見ていて、ひとつ気になること。目にする記事のなかには事件を起こした被告の近況に触れたものが多くあります。彼が依然として事件を起こす動機となった人間観を維持しているということが書かれているわけですが、それを書くなら、その人間観がいかに誤っているのかというのを記事のなかできちんと触れて欲しいのです。もしかしたら記者さんにとってはそれが誤っているというのは改めて文字にするまでもなく自明のことかもしれないけど、この場合においてはやっぱり誤りは誤りときちんとはっきり明確に書くべきだと思うのです。事件直後に時の総理大臣がお悔やみとお見舞いばっかりで“差別は許さない”と一度も言わなかったような社会ですから。

もうひとつに言えば、被告の名前を表記したり写真を掲載したりするのはやめて欲しい。ニュージーランドでムスリムを狙ったテロがあったときに、首相が“男はこのテロ行為を通じて色々なことを手に入れようとした。そのひとつが、悪名だ。あの男は悪名をはせようとしたのかもしれないが、我々ニュージーランド人は彼に何ひとつ与えない。名前さえも。私が言及するとき、あの男は無名のままで終る。”というようなことを言ったそうです。テレビ報道でも顔にモザイクがかかっていたとか。名前とか顔とかって容易に象徴化してしまう。そういう記号は作るべきでないと思うのです。

なんとも、いろいろ考えることの多い日付です。


*テロの件、首相っていうのは日本のではなくてニュージーランドの、です。世界で初めて首相在任中に産休を取得したことで有名、ググってみたら奇しくも本日お誕生日で39歳とのこと。



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来客 [所長の部屋]

超ひさびさの陽射しがうれしい水曜日です。元気のなかったプランターの夏野菜たちもこれで盛り上がってくれるでしょうか。

今日は来客がお一方。さいきん流行りのリビングラボというやつについてのご相談でした。

リビングラボフライヤー.JPG


障害がある人の生を支えるためには『障害福祉』の輪の外に出てゆくことも大切だと常々感じております。よいセッションになるよう、できることをやれればと。

で、お越しいただいたKさんが、しもごうのビーズアクセサリーを購入してくださり、さっそく装着画像を送っていただきました。

しもごうくんチャーム.jpg


チャーム部分は、うちのメンバーが描いたイラストを元にアトリエ窓さんが作ってくれた、コラボ作品。

ありがとうございます。

【注;いちばん左のウッドのやつはKさんの自前です】
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ドキッとしたこと [所長の部屋]

突然ですが、鴻上尚史さんという作家・演出家がいます。
長いこと、わたくしにとっては特に好きとか興味があるとかではなく、有名だから名前は知っているけど作品はよく知らないという存在だったんですが、先日読んだ『不死身の特攻兵』という本がすごく面白くて、ああ、こういう作品を書く人だったんだ、と思いました。

で、その鴻上尚史さんが人生相談をしているウェブサイトがあって、これがまたなかなか良いのですが、その最新の回(→クリックするとリンクが開きます)を読んでドキッとしました。

相談の内容を要約すると、相談者AさんにはBさんという友達がいて、Bさんは家庭環境にも恵まれず、つらいことが多かった。AさんはいつもそんなBさんの話を聞いてあげて、アドバイスをしてあげて、親身に寄り添ってきた。なのに最近Bさんから絶交を言い渡された。なんででしょう。というような感じ。

で、鴻上尚史さんは、その答えのなかで自分がイギリスに留学した時の体験をひいて『無意識の優越感』について触れています。例えば、道に迷っている目の不自由な人に「どうしました?」と話しかける時、僕には無意識の優越感がなかったのか、と。

われわれは『支援者』とか称されていて、障害のある当事者を『支援する』ことで給料をもらっています。そういうわれわれにとっても、この『無意識の優越感』というのは非常に恐ろしいことです。『支援する』という行為(というものが定義可能だと仮定して)は、おせっかいな友人以上に『無意識の優越感』に陥りやすいのだと思います。

学生の実習とか、体験学習とか、そういう機会に“この仕事の難しさや苦労はどんなことですか”という質問を受けることがあります。苦労や難しさなんて枚挙にいとまがないんですが、いちばん苦しいのは『支援者』である自分のなかにも障害者に対する偏見がある、ということに気づかされる、ということです。そのことを、この『無意識の優越感』という言葉は鋭く指摘しています。

当たり前のことですが、われわれ『支援者』は、『支援者』という肩書を手に入れたからといって自分の偏見や差別意識や優越感を自動的に削除できているわけではないのです。むしろ、『支援者』という肩書があるからこそ、自分のメモリのなかにそういう有害なファイルが入り込んでいないか、いつも点検しなければいけないのだと思います。

って、これ書いてよかったのかな。




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ことばの意味 [所長の部屋]

桜もそろそろ終わりかな。

しもごうのある横浜市は障害福祉にかける予算がわりあい多くて、国が全国標準で定めている制度の他にも市が単独で要綱を定めている事業がたくさんあります。そのため、『進んでいる』と評されることがしばしばあります。

それはそれでよいことだと思います。最近は市単の事業が縮小傾向にある気がしますが、それはそれとして、福祉職採用であったりケースワーカーの配置であったりっていうのも横浜にあっては普通のことのように感じますが、ほかの自治体にはなかったりします。

でも、他の自治体にあっても先進的な取り組みはあります。あたりまえですが。

戸塚区と境を接するお隣の鎌倉市では、この4月1日に「鎌倉市共生社会の実現を目指す条例」が施行されました。とても先駆的な取り組みだと思います。

で、雑感。

『合理的配慮』の語義を説明する条文のなかに“市民が日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの”という文章があります。ここを“その他のもの”ではなく“その他一切のもの”としているところに本気を感じます。

共生社会という言葉については“市民一人一人が、お互いを尊重し合い、支え合い、多様性を認め、自らが望む形で社会と関わりを持ち、生涯にわたって安心して自分らしく暮らすことのできる社会”と定義しています。個人的にはここに『ひとりの例外もなく』というニュアンスが込められていたらなおよかったのではないかと感じます。

ほかにも、考えさせられること、感じることがたくさんあります。ウェブでいろいろ検索すると素案とか素案の骨子とかも掘ることができて、その移り変わりをたどってみるのも興味深いです。

共生社会とかインクルーシブとか、最近よく見たり聞いたりします。こういう言葉をよく見聞きすること自体を前進ととらえることもできるし、逆にまだまだそれが実現されていないことの表れだととらえることもできます。ただ、いずれにしても大切なのは、『共生社会』や『インクルーシブ』という言葉が何を意味しているのかっていうのをちゃんと具体的に考えるっていうことだと思います。定義づけるっていうのは一面においてはその定義を線として該当・非該当を分けてしまうという危惧もありますが、その危惧を認識しつつも、ちゃんと中身を吟味していかないと、良い香りだけで味のない料理みたいなことになったり、ヘタすれば共生社会を築くためと称する排除が行われたりしかねないのです。

なんてことをつらつら考えながら条文を読んでいましたが、実は前文がいちばん読み応えあったりします(わたくしがサッカーチームの背番号も自分の車の希望ナンバーも13番にしている理由が書いてあります)。条例はこちら(→クリックするとリンクが開きます)から読めますので、みなさまゼヒ。
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雑感2 [所長の部屋]

最近のニュースで気になったこと。

ニュージーランドで凄惨な事件があって、それ大して対して日本の外務大臣が声明。
『日本は,本日,ニュージーランドのクライストチャーチで残虐なテロ攻撃が行われたことを断固として非難します。亡くなられた方々及び御遺族に対する心からの哀悼の意を表するとともに,負傷者の方々に心からお見舞い申し上げます。
 ニュージーランドが受けた痛みは,我々の痛みでもあります。このような卑劣なテロ攻撃は,いかなる理由でも許されることはありません。ニュージーランドがこの困難な時を乗り越えるにあたり,心からの連帯を表明します』
とのことですが、件の事件はただのテロ攻撃ではなく、特定の宗教およびそれを信仰する人々を狙っている差別犯罪です。差別は許されないと明確に表明してほしかったです。津久井やまゆり園事件の時にも思ったんですけど、単なる規模の問題ではないのです。

イチロー選手の引退記者会見の最後の質疑。
アメリカに行って自分が『外国人』になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したりするようになった、と(“今までなかった自分が現れた”と表現しておられました)。
なんと表現してよいのかわかりませんが、刺さりました。

エクセルの山は越えました。

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雑感 [所長の部屋]

年度末です。そろそろエクセルに飽きてきました。

今年度はどうだったんだろう、と振り返ったりしています。

しもごう的にどうだった、というのはまた改めて綴る(かもしれない)として、世の中的にはどうだったんでしょうか。

個人的には、『強制不妊手術』をめぐる進展(訴訟、賠償など)と出生前診断ができる医療機関の要件が緩和されるという二つの事象が気になりました。実はやまゆり園事件と同じぐらいに重いニュースなのではないかと感じています。

先入観と思考停止。これと戦っていかないと。

しかしエクセルに飽きました。


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2月を逃がすな [所長の部屋]

今日は春を思わせる陽気です。

2月は逃げるとよく言いますが、実際の話、2月をどう使うかで3月をどう使えるかが決まってくると思います。で、3月をどう使うかで決まってくるのは…

当然ですが翌年度です。

一年を振り返り、達成と課題を明確にし、改善や新しい企画を考える。これをちゃんとやって、2019年度を実り多いものにするために、2月に逃げてもらっては困るのです。

個々のスタッフに課した振り返りシートは先週金曜が提出期限。
読むのが楽しみです。




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移動情報センター推進会議 [所長の部屋]

昨日は戸塚区福祉保健活動拠点フレンズ戸塚で『移動情報センター推進会議』という会議がありました。

移動情報センターは障害がある方の『移動』にまつわる困りごとや支援について総合的に相談を受ける窓口として横浜市が区ごとにひとつ開設している相談機関で、各区の社会福祉協議会が委託されています。

で、移動情報センター推進会議っていうのはその移動情報センターの事業を推進するための会議。メンバー構成は区によって異なるようですが、戸塚区では現在のところ①健康福祉局の担当係長②区役所の高齢・障害支援担当③区役所の子ども・家庭支援担当⓸学校関係(養護/特別支援学校の教員)⑤区社会福祉協議会の事業担当⑥市社会福祉協議会の事業担当⑦基幹相談支援センター⑧生活支援センター⑨その他、という面々。わたくしは⑨枠で出走しております。

推進会議では相談の内容や対応についての報告、事業者との連携、担い手の確保に向けた取り組みなど様々な議題がありますが、個人的には『できたこと』より『できなかった/できないこと』にフォーカスすべきだろうと思っています。移動情報センターによる相談・調整では解決できないニーズや制度の構造的な問題を明らかにして、それを施策展開に反映してこそ『移動支援』を『推進』することになるはずだ、と。かつ、それにあたっては支援者であると同時に事業を運営する者でもあるという自分の立ち位置ならではの見解を述べなければ、参加している意味がないだろう、と。

で、だいたい局の係長に食って掛かる感じになってしまう。別にいちゃもん付けたいわけではないんだけど、なぜか毎回そうなる。

推進会議で毎回話題に上がるのが通学・通所のニーズ。横浜市の移動支援事業は『移動介護』と『通学通所支援』に分かれていて、なぜか後者は報酬単価が安い。前任の係長が“”通学・通所は同じ支援の繰り返しだから難易度が低い”的な説明をしたことがありますが、全く腑に落ちません。教育を受ける権利なんてほんとに人権の基礎の部分(権利を知る権利)なのに、事業者が見つからないから学校に行けないとか言語道断だと思うのです。それに対して行政ができることっていったら報酬単価を引き上げて事業者の参入を促すことぐらいじゃないですか。的なやりとりがもう何年も繰り返されていて、そのたんびに歴代の移動支援係長は“局としても現状は課題だと思っている”ぐらいしか言うことがない。ここで言われたって(しかも⑨その他枠のやつに)、その場で言えるのなんて“がんばります”ぐらいだよな、と思いつつ、やっぱり言ってしまうのです。

ところが。

昨日の会議で係長から“実は通学・通所の単価について移動介護並みにするよう来年度の予算案に盛り込んで市議会に諮っている”との発言。

やった。なんか報われた感じがする。暖簾に腕押し的な感じだったけど、実は暖簾だと思って押してたのがドアだったのか?。

別に戸塚区の推進会議での議論が根拠になったなんて誰も言ってないんだけど(ていうか実際べつに戸塚区の推進会議での議論が根拠になったわけではないんだろうけど)、とにかく言い続けたことが変わりそうっていうのはうれしいです。

しかしこれ書いちゃっていいのかな。





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