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裁判が始まりました [時事]

新年はじめてのブログです。おめでとうございますとか、本年もよろしくお願い申し上げますとか、近所の熊野神社に初詣に行ったら第2しもごうの面々と第3しもごうの面々も来ていて、新年早々勢揃いしたぞとか、そういう記事をかくべきなのですが、やはりこのことを書かなければならない。

2016年7月に起きた津久井やまゆり園での凄惨な事件についての裁判が始まりました。

まずはじめに、犯人が今でも固執しているとされる考えが全くの論外であるということをはっきりしておきたいと思います。論外です。

そのうえで、大切なことが二つあります。

一つ目は、『もしかしたら、自分が彼だったのかもしれない』と想像することです。彼が固執している考えは論外ですが、その考えに至る入口は誰もが心のなかに持っています。彼はその入り口を入って、いろんなものに押されて、行き止まりまで進んでしまった。自分はそこまで進んでいないけれど、それは幸運にも押されることがなかったか、押し返してくれるなにかがあったかに過ぎないのです。

二つ目は、『もしかしたら、自分が彼らの中の一人だったのかもしれない』と想像することです。誰かの論外な価値観のもとに抗うすべもなく命を絶たれることの理不尽さ。この事件の犯人にとってはそれが偶然ハンディキャップの重篤さであっただけで、“日本人だから”とか“男性だから”とか“右利きだから”とか、そういうことだったかもしれないのです。

二つのことを通じて、つまり、これはあなたのことであり、わたしのことであり、あなたのすぐ隣にいる誰かのことなのです。今回の事件を、特異な人物が特別な人たちを殺傷した特殊な事件だと思ってしまったら、また同じことが違う形で繰り返されます。内なる彼を押し返し、たくさんの彼らを支えること。そのために、微力を尽くさなくてはなりません。

それから、犠牲者が匿名の記号で呼ばれることに強い違和感を覚えています。亡くなったのは『甲A』という人ではありません。ご遺族の意向を汲んでと報道されていますが、ご遺族がそう願わざるを得ない圧力や偏見が社会にあって、その圧力や偏見はそのまま彼を犯行に至らしめる力でもあったのだと思います。

一方で彼の氏名や写真が繰り返し報道されることにも強い違和感を覚えます。これについては単純にうんざりだ、という感情もありますが、彼を偶像にしてはならないという思いでもあります(ニュージーランドでムスリムが集うモスクで銃の乱射があったときに首相が“犯人の名は二度と口にしない”と言っていたのが印象に残っています。

新年早々どんよりした記事ですが、障害児者支援に携わるものとして、ずっと考え続けなければならないと思っています。
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