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先入観 [所長の部屋]

突然ですが、辞書が好きです。
特に三省堂の新明解国語辞典が大好きです。
新明解は言葉への思い入れが痛烈で、たとえば『読書』を牽くと“想いを浮世の外に馳せ精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために時間の束縛を受けることなく本を読むこと”とあり、念を入れるように括弧書きで(寝転がって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは勝義の読書には含まれない)と続いています。

なぜ突然辞書の話かというと、日本語辞書の代名詞ともいえる広辞苑の改定があったという話題を耳にしたからです。そのなかで、『肌色』という言葉についての説明が変わった、と。

肌色ってまあこんな感じの色、というのは皆さんそこそこ共通してあるのだろうけど、果たして実際の人の肌の色がみんなそんな感じの色かって言ったら違うよね、だから最近この言葉は色の名称としては使いませんよ、ということのようです。

当を得た話だと思います。個人的にもわたくしは自分が色盲だものでちっちゃいときから肌色ったってわかんねーよと思っていたので、なんとなくすっきりという感じ。

なんでこの話をブログに書くのかというと、これってつまり『なんとなく自明のことであるかのように感じるけど、実はその根拠となっているのはただの先入観に過ぎない』という事象で、そのことに気づかされる場面がこないだ自分にもあったからです。

横浜能楽堂というところがあって、毎年『バリアフリー能』という催しがあるのですが、そこの職員さんを対象にした障害理解および能の舞台鑑賞における知的障害者に必要な配慮を学ぶっていう研修会の講師を申しつかっていて、その打ち合わせでのこと。

『能』という芸術表現があって、その面白さや素晴らしさが知的なハンディがある人たちにどうやったら伝わるだろうかっていうのがお題だったのですが、どうもうまいことまとまらない。

いろいろ考えているうちにふと気づいた。よくよく考えてみればそもそも能が面白いとか素晴らしいとかっていうのは別に自明のことではないよね。能が面白いか、素晴らしいかっていうのはそれを観た人の心の動きにかかっているのに、あたかもそれが了解済みの事項であるかのように考えてそこを出発点にしてたからうまくまとまらなかったんだな。

そうなると、どう伝えるのかとかいうテクニカルな話よりも『どういう環境設定や配慮があったらその場を楽しむことができるのか』なのだろうな、と思いました。

で、そう思って改めてバリアフリー能のあらましをうかがってみたら、面白ければ笑っていいし怖かったら泣いていいしつまんなかったら出て行ってもいいのだと。

じゃあ、別にないんじゃないかな、改めて必要な配慮なんて。

さすがに『別にありません』では研修にならないので、いろいろとお話はするのだろうと思いますが、どうも筋や答えがはっきりしない、しゃべる側も聴く側もスッキリしない研修になりそうです。でも、実はアート領域の人ってこういう出口のない禅問答には意外と親和性があって、障害児者支援の適性が高いのではないかと思ったりもします。むしろ『福祉系』の人のほうが筋や答えを欲し過ぎるきらいがあるような…


ちなみに色の名前にまつわる個人的な疑問はほかにもいろいろあります。茶色がお茶の色なら紅茶とか緑茶ってどういうことなんだ、とか。そもそも赤と緑がわからない人に対して『それって赤に見えてるの?それとも緑に見えてるの?』っていうのが自家撞着だって気付いてほしいですね。

それはそれとして、しもごうまつりの準備は着々と進んでいます。
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